Essay

澤田の白は夢想と無意識を拒絶する「澤田育久の写真について」 金村 修

白い陥没地帯としての壁。平面の滑走、漸進的に横滑りする奥行きのないツルツルの平面を陥没と感じること。平面であることがすでに陥没であるような白色の壁。陥没地帯としての壁は世界を滑面の白い表層に変容させる。白色の壁は分節することで世界を知覚し空間に変容させるのではなく、空間を成立させようとする分節の志向を棄却し、空間を構築できないまま白い壁の前で知覚の志向を宙吊りにする。空間の分節作用を放棄した壁。世界は平面のまま現れ、平面のまま平行に陥没する。遠近を喪失した白い凹凸のない平面のフラットな壁に無数の消失点が現れる。無数の消失点は、単一で単眼の主体を複数の複眼的な主体に変質させるだろう。複眼化された主体は無数の消失点をもった対象によって自らの立ち位置を見失う。立ち位置を見失ったわたしとは、わたしのいないわたしの意識であり、わたしを欠いたわたしが白い壁の前に立ち尽くす。空間が成立することで始まる時間意識は、白色の壁のなかに埋没したまま二度と浮上しない。滑面の表層のなかで時間の蝶番が外れ、平面の海のなかで時間がとらえどころのない漂流を開始する。澤田育久の壁は空間の構築を拒否する形象のない海であり、明晰な状態のまま麻痺する時間が、白色の海のなかで踏み迷う。主導権がどこにもない停止した時間。時間が不動化する中間の永遠の持続は概念の永遠性とは異なり、けっして終わることのなくどこまでも停止したまま持続する。時間の不在の魅惑。摩滅されたタイルのような死を時間はこの白い壁のなかで経験するだろう。

質問と答えが同時に現れる。質問と答えは等価であり、白色の壁が質問で白色の壁が答えだという壁のトートロジーが姿を現す。質問と答えが座礁したまま立ち尽くす臨界点。臨界を指し示す白い壁がピカピカに磨かれたキャデラックのボンネットに腰掛けた「アルファヴィル」の「α60」ように答える。壁の写真はその非現実性ゆえに恐ろしいのではない。不可逆不変であるがゆえに恐ろしいのだ。壁はわたしを作りなしている材料である。壁はわたしを運び去る川であるが、川はわたしだ。壁はわたしを引き裂く虎であるが、虎はわたしだ。壁はわたしを焼き尽くす火であるが、火はわたしだ。不幸なことに白色の壁は現実であり、不幸なことにわたしは白色の壁なのだ。白色の壁は何も遮らない。白色の壁は空洞の形態であり、その表面しかない空洞を一切の記憶が通り抜け、白色の壁と合体する。合体した壁の向こうには何もない。遮られた壁の向こうにあなたがいるのではなく、壁に合体したあなたとわたしが、それはあなたが壁でありわたしが壁だった。わたしと壁があるのではなく、わたしが壁だった。「α60」は質問に答えたために自爆する。昼も夜も変わらないもの、それゆえに過去は未来を示し、そしてそれは一直線に進み、だが最後にはまた出発点に戻るものとは何か?未来とは白い壁のことであり過去も白い壁のことだ。互いに指し示し合う過去と未来は同じ壁の地点に現れる。未来とは過去であり、過去とは未来のことであるなら、「α60」は何も答える必要はなかった。「α60」そのものが未来であり過去であり質問であり答えであり、わたしでありあなたであり、そして「α60」だった。世界は「α60」のように現れる。世界は白色の壁のように現れる。未来と過去が同じ平面で出現し、未来と過去が廃材でつくられた建築物のように構築と破壊が同時に遂行されるような空間ならざる空間で死ねないまま死ぬ。それは朽ちたまま残る遺骸のような生を露出するだろう。迷宮の真理は直線の道で迷うことのように、白いフラットな壁の表面が白い表面のままモザイクのような迷路になり、対象の名前を見失う。澤田育久の撮る白色の壁は無数に裂かれた走査線の束であり、走査線の束となった壁は世界との有機的なつながりを喪失し、どの世界にも帰属することができない。帰属先を特定できない壁は実体としての壁ではなく、無数のスラッシュされた線のように刻まれた走査線の数としての壁であり、壁は分節化できない海のなかで溺れる束ねられた数の溺死体として現出する。

澤田育久の写真にとって万物とは数であり、万物とは数であるのなら、万物とはジャック・ザ・リッパーが切り刻んだ売春婦の顔の無数の切り傷の数であり、売春婦の肉体はジャック・ザ・リッパーが切り刻んだ傷の数によってはじめその存在を見いだされる。行為が存在に先行し、行為の集積が存在を決定するように、売春婦を切り裂くという行為が売春婦の肉体に先行し、切り刻んだ傷の集積が売春婦の存在を決定する。非匿名的で個別的な肉体をもたない自己決定権のない売春婦の肉体は、血と内蔵でできた超越的主体によって与えられた肉体ではなく、切り刻まれた傷によって構築された走査線の肉体であり、写真は走査線の亡骸として現れるだろう。走査線的亡骸としての売春婦の肉体からは決して血が流れない。流血の傷跡は血ではなく白い鉛のような壁を露呈する。

売春婦の顔に傷を刻むのではなく、無数の切り傷の堆積が売春婦の顔を決定する。最初に特権的で唯一の選択不能の顔が起源としてあるのではなく、顔の起源にはすでに切り裂かれた縫合不能の傷が露呈する。わたし達ははじめから走査線の傷によって分裂された顔しかもつことができない。走査線のスラッシュによって刻印された傷が白い壁の起源を支配する。 「リオ・ブラボー」の人物が迷い込んだ白くのっぺりした「マリエンバード」。またはペーター・キュルテンがエマニュエル・リヴァを獣のように殺す「ヒロシマ・モナムール」。エマニュエル・リヴァが出会うのは獣の赤い血ではなく、生物と色彩が消滅した後の余白、何の比喩も露呈しない唯物的な白い壁であり、天上の差異が消滅し星座は暗闇のなかの白い点でしかない差異を喪失した白いどこまで行っても同じ壁にしかエマニュエル・リヴァは出会わない。デユッセルルドフの吸血鬼ペーター・キュルテンが出会うのは赤い血ではなく、永遠に交わることのない平行線としての壁。血管に赤い液体が流れているのではなく鉄筋でできた血管とコンクリートで固められた肉体。ペーター・キュルテンとの「24時間の情事」は「ヒロシマ・モナモール」の情事を惨劇にかえるだろう。惨劇しか受けつけない情事。ペーター・キュルテンとの情事は情事の極点を目指す惨劇の情事であり、極点としての情事は犬や鶏を刃物で刺しながら交わったペーター・キュルテンの孤独な情事のように「ヒロシマ・モナモール」の情事の思い出をズタズタに切り裂く。切り裂かれた傷口から何も流れない。記憶の断片を有機的につなげる蝶番が切り裂かれてしまう。白色の壁のようにフラットで滑面の何もない記憶。記憶と事実の記述が欠けた血の流れない肉体は、白い壁のような何もないヒロシマを見るだろう。何も見えない「ヒロシマ・モナモール」が盲目の獣のような生を召還する。DNAに支配された獣の生は自由意志を放棄した生であり、わたし達が召還するのは自由意志が消えたあらかじめすべてが決定された選択の余地のない生。DNAに刻印された行動パターンが記憶から主導権を奪還する。白色の壁がわたし達に獣のような生を生きることを要求する。白色の壁がわたし達の意志や思考をうちのめす。二人は何も見えない。二人を永遠の平行線の位置に立たたせたまま、視線を盲目化する遮断としての白い壁。白色の壁は決して対象とは出会わせない。対象から遠ざかる、出会いを拒否することが壁の真理であり、わたし達が出会えるのは壁でしかなく、壁がわたし達の生を支配するのであり、壁はわたし達の超越的主体なのだ。最初から壁に断絶されていた。ロワールの寒村とヒロシマの間に出会うことのできない亀裂の壁があるように白色の壁は世界との無媒介な出会いと理解を拒絶する。ロワールの寒村がヒロシマの情事を理解できないようにわたしはあなたとは決して出会わないだろう。あなたとは壁のことだ。わたし達は遮断された壁に投影されあなたを見ていただけで、最初から白い壁しかなかった。白色の壁はすでに答えであり理解という装置なしで答えが存在する。世界は答えだけが存在する。“あなたはドイツ人で、わたしはあなたの血をなめていた”それは血ではなく壁に投影されたフィルムの血であり、共有される思い出が破棄され物語が発動しない映像の断片、統一体としてのあなたが砕けちり、あなただと特定できない誰かの血をなめる。わたしはあなたの血をなめたのではない。わたしがなめていたのは白い壁だった。わたしが見ていたのはあなたではなく白い壁だった。記憶とは走査線の壁がつくった嘘と出鱈目だ。わたしは血ではなく投影されたイメージの血をなめていた。投影された血は本当のあなたの血ではない。それは血の廃墟、血の亡骸、イメージはつねに対象の廃墟として現れる。わたしは生きたまま亡霊になったドイツ人、本当のドイツ人ではなく映像のなかの字幕に指示された記号のドイツ人の血をなめる。白い壁に投影されたドイツ人は無数の走査線の傷で成立したドイツ人であり、写真に写ったドイツ人の記憶は近寄ることでブロウ・アップされぼやけイメージは何も見えなくなり、やがて白い壁しか知覚できなくなるだろう。走査線の壁は網膜に焼き付いた記憶を棄却する。記憶とは何も書かれていない、これからも決して書かれることのない白。書かれたことを抹消する白。可能性ではなくあらゆる可能性と生成を摩滅するための白。わたしがおぼえていたのは、ドイツ人でも血でもないただの白い壁だった。記憶を棄却したあなたの血は、誰と特定できない誰のものでもない剥き出しのプラスチックのような白い血を差し出す。それはあなたのいないあなたの血の亡骸。手向ける相手がいない手向けの花。遺体が埋葬されていない墓。喪のない喪に服すような叙情の亡骸を弔う情の喪失した叙情詩であり、詠嘆は対象のない詠嘆を繰り返し、追悼は誰にも捧げない追悼文を読み上げる。白い壁の叙情詩はかってあったものへの哀悼ではなく最初から白い壁しかなかった、何も失ってない。空間の分節化を拒否した白い壁の前であらゆる遠近法に見捨てられたまま死ぬ“ヒロシマを知らない”女のようにわたし達もこの白い壁について何も知らない。無定形に広がる意味を欠いた白は殺意と不安を呼び起こす白であり、エマニュエル・リヴァは漠然とした不安を抱いたまま永遠に死ぬことができない。現在が永遠につづく白。あらゆる継起を拒絶する白。何も起きない白。何も反射しないかき曇った鏡のような白のなかで、わたし達は色彩から追放される。色彩に見捨てられた死はただ漠然と、この白よりも白いのっぺりとした壁の前で何の予言も恩寵の声も聞くことができず永久に佇む。死んでいるのに死ねない白い「ヒロシマ・モナモール」のような生。

自然界の均等をモデルとして発明された数は、対象を強制的に均等化する。数とは魔術であり、世界を均等化し統計化するための数は、世界を把握するために、世界を調和と安逸で満たされた動物のような眠りに誘うための催眠術でありながら、その催眠術は二度と目覚めさせない死のなかの眠りに誘う。あらゆる夢想と無意識から追放された白い壁のなかの眠り。数値化された眠りは夢をみることができない。白い壁の前で想像力が非命を予感する。あらゆる想像力が白い壁の前でその思考と跳躍を禁止される。想像力が生成する時間の感覚と無制限の跳躍運動であるなら、澤田の写真は生成の時間を破棄し跳躍という運動を遅滞化させ立ち往生させ、白色の壁の前で永遠の持久と待機を要求する。白の上に白を無限に重ねつづける。白が白を白の上に重ねつづける以外に、白色の壁はどんな運命を夢見ることができるのだろう。白は白でしかなく白である根拠はどこにもない任意の白であり、無責任に断定される白。白の暴力的なトートロジーが美と想像力をこの世界から駆逐する。美と想像力が、ふるいにかけられ通り抜けられなかった網目にひっかかる残滓のようなその亡骸をさらけだす。

澤田の白は夢想と無意識を拒絶する。比較対象のない白を白として見続けること。この白い土地の下には何もない。何も書かれない空白が理解不能な幾何学的な線のように記述される白い壁の叙事詩。白色の壁に描かれた幾何学的な線は、獣の精霊を呼び出すための魔術的な形像であり、血の出ない出血を強要する何もない白色の壁を凝視することを強要する。わたし達は永遠にその前でとまどいつづける。白は無定形であるがゆえに海や川のアナロジーにもなり、澤田育久の撮る白い壁は形像を喪失した海のように広がりつづけながらも、どこの岸辺にも着くことがない。無定形に広がる白はどの岸辺も浸食して腐食させる。摩滅した鏡の表面は何も写らない。こことどこか。こことどこという固有名をもった具体的な場所は、この白い壁の前では思い出すことは禁止される。白い壁はどこでもないどこかへ、ここではないここへわたし達を連れて行く。

見よ、そして、戦慄せよ! タカザワ ケンジ(写真評論家)

目に痛いばかりの白さと、シャープな線、塗りむらを見つけることなど不可能に均一な青、オレンジ。厳密に構成された空間には影が存在することすら許されない。いったい、ここに写っているものは何なのか。スーパーコンピュータを擁するクリーンルームか、原子力発電所の格納容器か、あるいは、いまだ建築されていない「模型」だろうか?美しさと、恐ろしさと狂気とをはらんだ画面は、見る者を戸惑わせるだろう。しかし、その戸惑いは、私たちの経験のなかにすでにあもののように思えてならない。

一つだけ言えることは、ここに写っているものはたしかに人間の手になるものであり、現実に存在しているということだ。しかも、この日本国内に。これが私たちの「文明のかたち」なのである。澤田育久の写真は、いま、この時代に、この国に生きている私たちが直視すべき世界を力強い握力でつかんでいる。澤田の作品を、いまこそ、見るべきだ。そして、深く戦慄せねばならない。